猟師になってから5年が経ちます。
狩猟で初めて仕留めたのは鴨でした。
動物ではなく鳥ですが、この後に銃で仕留めた鹿よりもよほど印象に残っています。
今回は、私が初めて自分の意思で鴨を撃ち殺した時の気持ちについて話をしたいと思います。
これから猟師を目指す方にとって肯定的な記事になるとは思えませんが、狩猟をしようとする方にはぜひ聞いてもらいたい体験談です。
※この記事は3分で読めます。
鴨の群れへ発砲した
それは猟師一年目の年末。
最初の池で見つけた鴨に発砲して外した後のことでした。
猟期序盤は初心者猟師でも鴨を獲りやすい時期です。
いくつか池を周り、やがて次の鴨を発見し、撃ちました。
狙いながらも心のどこかで「どうせ当たらないだろう。まだ経験が浅いから…」というような気持ちでいました。
命中しました。
こちらに気付き鴨が池から飛翔した、その瞬間に散弾が直撃しました。
体勢を崩し池へ着水する鴨。他の仲間たちは着水した鴨を一顧だにせずに飛び去って行きます。
仲間を放って逃げるんだな。当たったな。他は撃てないな。すごく音が響くな。などなど。
その一瞬でいろいろなことを考えていました。走馬燈のように思考が加速している感覚です。
4羽ほどの群れ。最初からどの鴨を狙うかの判断などできず、その鴨に狙いを定めたのはただの気まぐれでした。
そしてその気まぐれで鴨は命を落とすことになります。
撃った瞬間「当たった!」という気持ちと同時に「当たってしまった!」と思いました。
最初に鴨を狙って外した時は、残念に思いながらも少しホッとする気持ちがあったのだと気付きました。
初めて鴨を撃った瞬間どう感じたか
発砲は一瞬のこと。しかし脳みそはフル回転していたようです。
鴨が着水する一瞬にいろいろな考えが浮かんでは消えました。
自分でやったことなのに、混乱していたのでしょう。
その中で私の頭の中を一番多く占めていた考えは…
あっけないな です。
引き金を引けば、本当に簡単に生き物が死にます。
覚悟していた感情の波が押し寄せてくることはありませんでした。
思考はなかなかまとまりませんが、身体はしごく自然に動きました。
一方で、半分が停止し半分が爆発したように思考を垂れ流す脳みそが不思議でした。
つまり興奮し浮ついていたのでしょう。
しかしワクワクするような気持ちは一切起こりません。不思議な感覚です。
ただ、自分の内心を分析するような時間はありません。
その時はただ必死に鴨を手に入れるために行動しようとしました。
二発目の引き金は重かった
その鴨は素人目に見ても致命傷であり、飛べるとは思えませんでした。
おそらく、目の前の鴨は二発目を撃たなくても遠からず死ぬ。そういう確信がありました。
そこそこ大きなその鴨は、池の中央に着水した後、私から逃げるように対岸へ向けてゆっくりと泳ぎ出しました。
その池は小さな池であり、対岸でも射程範囲です。
撃つべきか、撃たざるべきか。
この判断は本当に難しく、猟師5年生になった今でも正しい判断ができるとは思えません。
ましてその時は初の単独鴨猟です。
もし後ろに誰かがいてアドバイスをくれたなら、いっぱいいっぱいだった私は即座にその指示に従ったでしょう。
二発目は撃たなかった
撃たない判断をしたのか、ためらいから撃てなかったのかは分かりません。
しばらく銃の照準を定めていましたが、やがて逃げる鴨を追うように対岸へ回り込みます。
そして水が引いてできた空洞に隠れた鴨を手で捕まえて引きずり出しました。
鴨はしばらく羽を揺すって逃れようとしていましたが、一分もしないうちに動かなくなり、死にました。
結果だけ見れば、私は猟師として賢い選択をしました。
致命傷の鴨に無駄に発砲するのはリスクとコストが嵩み、また肉も傷だらけになります。
さらに池の中央で殺してしまえば、鴨の回収が大変で、最悪回収不能になってしまう恐れもありました。
やけに世界が鮮明だった
ずっと、極限まで集中していたのだと思います。
冷たい空気を肌ではっきり感じたし、排莢のために折った銃身から立ち上る湯気がゆっくりと空気に消えていく様を見ていました。
はぁ。と一息つきます。
上手くやれたかはわかりません。
でも鴨を仕留めることができました。上々の結果です。
鴨を回収し、後で捌き食べるための下処理をします。
フワフワと熱に浮かされたように実感がわかず、ただ事前に備えていた”やるべきこと”を淡々とこなしました。
腸を抜いて車に運び、帰路についたころには、落ち着いて思考を整理する余裕も出てきました。
拠点に吊るした鴨を見て、ようやく狩猟で鴨を仕留めたのだという実感と、嬉しさが湧いてきました。
脱童貞って、何事もこんな感じなのかもしれませんね。
嬉しくもあり、同時に虚しくもあった
鴨猟は有害駆除とは違い、100%自分の趣味による狩猟です。
自分の趣味で群れで生きている鴨の一羽を撃ち殺した。なにやってるんだろう自分。という虚しさが押し寄せます。
嬉しさを噛みしめ虚しさを忘れるために、鴨をしっかりと食べることを決意しました。
「仕留めたからには大切に食べよう」というのは仕留めた動物のための言葉ではありません。
自分に対する納得と理由づけ、つまり自己満足のための言葉だと思います。
大切に食べてやるから殺させろと言われて誰が納得するんだって話ですよね。
でもそう思わずにはいられないのです。
自己満足を得ることは自分を守るための大切な手段です。
命の重さは人によって違うし、平等ではない
誰しも、命を奪うということに対して思索を巡らせた事があると思います。
私たちは、道を歩けばアリを踏み潰し、血を吸う蚊が鬱陶しいから毒殺し、釣り上げた魚を窒息死させています。
人によってはそれを嘆き、人によっては何の痛痒も感じません。
命の重さをどう感じるかは人によって全く違います。
命を奪うということは考えていたよりもあっけなく、自覚の追いつかないものであり、しかし時に心に残り続けるものです。
私にとって、鴨は鹿や猪以上に命が重い身近な存在でした。
事前に考えていたような感傷はそれほどありませんでしたが、それでも5年が経って当時の記憶を頼りに話をすることができるくらいには記憶に残っています。
鹿と猪は日常で触れ合う機会は少ないです。だから最初から狩猟の獲物という視点で考えられました。
それに比べて鴨は野池や動物園でよく見かける、私にとって比較的穏やかな時間を過ごす時に存在した生き物なのです。
だからなのか、私にとっては鹿よりも鴨を仕留めるときの方がいろいろと考えてしまうことが多いのです。
引き金を引くには覚悟がいる
引き金は重いです。
これは比喩ではなく、誤って発砲することがないように2キロほどの力で引かないと動かないようにできているのです。
逆に言えば、確固たる発砲の意思を持って引き金を引く必要があります。なんとなくでは弾は出ないのです。
その2キロをあっさりと乗り越える人もいれば、私のようにウジウジと考える人間もいます。
やることは同じだから、割り切って楽しく狩猟ができればと思うのですがね…。
これから狩猟をする方が読んでくれているかはわかりませんが…。
猟師になり、狩猟をするなら生き物の命を奪うことを避けては通れません。
私の場合は、命を奪うことは思ったよりあっけないと思う一方で、軽く思考が麻痺してしまいましたが、それでも体は動いてくれました。
皆さんがどのように感じるかはその時になってみないとわかりませんが、それまでに心の備えをすることはできます。備えましょう。
動物を殺す人を見ることで感じる温度差の正体
何度か単独で出猟した後、先輩猟師と一緒に鴨猟をする機会がありました。
まだどことなく感傷を引きずっていた私に対し、先輩は純粋に鴨猟を楽しみ、止めをさす時も私に感傷や躊躇いを感じさせませんでした。
鴨を銃で殺して獲りに来ているのです。
健全で正しいのは先輩猟師のほうで、いろいろと考えてしまう私は青臭いのかもしれません。でも…
強いな凄いなと思う反面、何とも言えない温度差を感じてしまったことをここに告白します。
動物を殺すことにおいて、慣れた人と慣れていない人の温度差を感じる機会は日常にもあふれています。
ネズミ捕りで捕らえたネズミを殺すときや、部屋に侵入した虫を殺すときなど。
畑をしているおじいちゃん、いわゆる昔の人はヘビや小動物を容赦なく痛めつけて殺します。
いつも孫に見せるニコニコ笑顔をそのままに、いつもの畑を耕すような手際で動物を殺します。
それを当たり前のことと認識しているのです。
私は悪いことだと思いませんが、そのあたりは意見が分かれるかもしれません。
耐性のない人は耐性のある人の躊躇いない行動に温度差を感じ、時には自分の常識から逸脱した様を見て得体の知れない恐ろしさを感じることもあるでしょう。
私は今でも猟師として動物を殺すたびにいろいろと考えます。
そうして考えることで猟師は動物を殺すことへ対する認識を変えていくのだと思います。
今では、動物を殺す瞬間は相変わらず虚しくなるものの仕留めた後は素直に喜べるようになりました。
「ここからは動物ではなく肉なのだ」と納得できるようになったのです。
経験を積めば、生きている獲物を補足した時点で肉を見る目で見れるようになるということなのかもしれません。
動物を殺すことに慣れること。
それが良いことなのか悪いことなのかはわかりません。
ですが、死に慣れることは人として自然な感情の変化なのだと思います。
そしてもし猟師が息をするように動物を殺すところを見ても、なるべくそれを不気味だと思わないでほしいなと思います。
マイノリティの視点に立つ機会を得た
これは蛇足ですが…。
私は猟師になってから、テレビで一般にサイコパスと呼ばれ敬遠されるような報道を見ても、ついつい共感できるような点がないかと考えるようになりました。
コメンテーターが「残酷だ許せない」と怒りを露にしているのを見ながら、「この人はどういう経緯でサイコパスと呼ばれるような行動を取るに至ったのかなぁ」と考えることがあります。
猟師は決してサイコパスではありませんが、多くの動物を殺すという点で大多数の一般人の感覚から少し外れた位置にあるのは間違いないです。
そんな立場にあるという考えからなのか、ついついマイノリティな少数派に感情移入してしまうのですね。
マイノリティ側の視点に立った時、一般の人の数の暴力はとても恐ろしく感じるのです。
嬉しいことに、狩猟という神秘のヴェールに包まれた存在は、近年急速に一般化しつつあります。
狩りガールだったり狩猟ブームだったりジビエブームだったり。
「あ、猟師ってこんなに普通で良いんだ」と思う人が増えてくれればうれしいですね。
そして実際に猟師になって獲物を仕留めてみれば。
そんな体験をした方はぜひ私と意見を共有して頂ければ幸いです。
↓私が猟師になった理由、きっかけを書いています。猟師に興味のある方へ
↓おそらく狩猟の一般化にトップクラスで貢献している漫画です。ためになるしマンガとしてもおもしろい。
カエデ
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